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0558-22-8888松下村塾の講師として有名な吉田松陰。伊藤博文や高杉晋作など名立たる人物を輩出し、彼らの生き方に大きな影響を与えたと言われています。実は吉田松陰にとって、ここ伊豆下田はとても縁のある土地なのはご存じでしょうか。吉田松陰は、世界の情勢を知るために下田からの海外渡航(しかも密航)を本気で企てていたのです。一世一代の計画の歴史舞台となった下田には、吉田松陰の当時の様子を伺うことができる史跡が数多く点在しています。さぁ、幕末ロマンを肌で感じる、吉田松陰を巡る旅に出掛けましょう。
時は1854年。吉田松陰は長州藩士の金子重之輔と共に伊豆下田に降り立ちます。その目的はまさに“海外密航”のため。日米和親条約の締結により、即時開港された下田の地。ペリーへ直談判するチャンスを逃さないために、下田での潜伏が始まりました。宿では偽名を使い、松陰は「瓜中万二(かのうちまんじ)」、重之輔は「市木公太(いちきこうた)」を名乗ったと言われています。その初めて宿をとった旅館こそ、岡村屋なのです。岡村屋はその後下田屋旅館と名を変え、下田を訪れる多くの旅人の迎えてきましたが、現在は営業を終了し、旅館の面影を残すのみとなっております。
下田へ訪れた当時、ひどい皮膚病を患っていたという吉田松陰。湯治のために訪れたのが蓮台寺の上の湯でした。しかしこの温泉、その地域に住んでいる人々専用で、よその者の入浴は禁じられていたのです。そのため、地元の村人にばれないよう夜中にこっそりと入浴をしていたところ、あろうことか村に住む医師の村山行馬郎に発見されてしまいます。しかし運命の女神は吉田松陰に微笑みます。皮膚の状態を診た村上は、「自宅で温泉治療をしなさい」と松陰を自宅へと招き入れたのです。村山との運命的な出会いを果たした上の湯は現存しており、今も地元の方々限定で開かれています。中を見ることはできませんが、周囲の様子は石畳の小道、古民家がひっそりと佇んでおり、当時の様子を伺い知ることができます。
上の湯と目と鼻の先にある蓮台寺温泉・吉田松陰寓寄処こそ旧村山行馬郎邸であり、松陰が湯治で数日間身を寄せた場所。現在は静岡県指定史跡として公開されており、吉田松陰を知るための必見スポットと言えるでしょう。外観・内観ともに当時の姿のままを残しているので、吉田松陰の息遣いが今にも聞こえてきそうなほど。ここでは松陰が寝泊りしていた部屋、松陰が使用した机や硯(すずり)、そして湯治を行ったと伝わるお風呂までも見ることができます。松陰がお世話になった数日間、ふたりは開国や文明について語り合ったと言われています。
医師村山行馬郎の自宅をあとにした松陰は、踏海を目指しついに行動を起こします。稲生沢川河口から小舟を漕ぎ、黒船を目指したふたりでしたが1度目は失敗。悪天候と高波、更には慣れない小舟といった悪条件が重なり、押し戻されるように弁天島へと流れ着きます。その際、身を隠して一夜を過ごしたのが弁天島にある弁天社の祠です。現在も見ることができ、吉田松陰の七生説の碑・金子重之輔の顕彰碑が建てられています。そして2度目は弁天島近くから再度小舟を出し、ついにペリー旗艦・ポーハタン号へと辿り着いたのです。弁天島近くの公園には吉田松陰と金子重之輔の「踏海の朝」と題された像があり、こここそが小舟を漕ぎだした場所と言われています。
黒船へと辿り着いた松陰は、ペリーへ熱心に渡航を直談判します。ペリーは非常に好意的にふたりの熱き想いに耳を傾けます。しかし、当時は日本との条約が結ばれたばかり。政府の許可がない密航を認めるわけにはいかないと、松陰の願いを断るしかありませんでした。黒船の乗船を拒否されたふたりは、バッテーラ(外国製の小舟)で下田へと送り返されます。ふたりが失意のまま上陸した場所が、現在の福浦海岸。ここにも、吉田松陰上陸の碑が建立されています。下田に戻ったふたりは自主し、長命寺に一時的に拘禁されます。現在長命寺は廃寺となっており、吉田松陰拘禁の跡(長命寺跡)碑だけを見ることができます。
松陰はその後投獄されますが、最終的には実家の杉家預かりとなり、松陰の叔父が主宰していた松下村塾を引き継ぎます。国防のため、日本の未来のため、罪を犯してでも海を渡るべきという若き松陰の夢は破れましたが、その視野の広さ、学識の高さは塾生へと受け継がれ、何人もの名立たる人物を輩出していきました。最後となりますが、ペリーは密航を企てた吉田松陰と金子重之輔に対し、非常に好意的な文書を残しています。
「日本の厳重な法律を破り、知識を得るために命を賭けたふたりの教養ある日本人の烈しい知識欲を示すもので、興味深いことである。日本人の志向がこのようなものであるとすれば、この興味ある国の前途は何と実のあるものであるか、その前途は何と有望であることか。(中略)哀れなふたりの運命がその後どうなったかはまったく確かめることができなかったが、当局が寛大であり、ふたりの首をはねるというような極刑を与えないことを望む。なぜなら、それは過激にして残忍な日本の法律によれば大きな罪であっても、我々にとってはただ自由にして大いに讃えるべき好奇心の発露にすぎないように見えるからである」
吉田松陰から見た下田は、夢への懸け橋だったに違いありません。
歴史ロマン溢れる下田の地を、松陰の当時の気持ちを思いながら
巡ってみてはいかがでしょうか。